現代当惑集

自分が祈るにまかせ、自分に祈らせること。展開せよ(デリダ)

"  そのほかには葬式のやり方をこまごまと指示した手紙の最後に、母は次のように私に 書いている。とても落ち着いていて、やっと平和に眠れるので、とても幸せな気持ちで すと。でも、ぼくにはわかっている、そんなはずはないんだ。(Aber ich bin sicher,  dass das nicht stimmt.)  93
 
 「でも、ぼくにはわかっている、そんなはずはないんだ。」とハントケ役が暗い顔で静かに述べた瞬間、それまで疲れたように頭を抱えてじっとしていた母親が、「何を言うの?」というぐあいにキッと顔を上げ、ハントケ役の俳優をにらみつける。見つめ合う二人の間に、見えない火花が散る。歌舞伎ならば見得を切る名場面となるのだろうが、二人の間の見つめ合いは、そのような美的な型の提示ではない。母親の自殺に至る物語と、それを言葉にまとめ上げようとしたそれまでの語りと、二種類の時間のすべてが、怒ったような母親の目と、困ったような息子の目との交錯に凝縮される。いささか気取った言い回しをすれば、二重の時間が凝視に空間化される濃密な経験となる。「そんなはずはない」のnicht stimmtは、「ふたつの音が調和しない」というのが原義である。"
— 1 month ago